2019年04月29日
ぶらり、ジャガーE-PACEに乗って群馬県南牧村の集落を廻ってみた【第1話】
さて、空が明るくなってきたので南牧村巡りを始めます。
南牧村の集落の特徴としては「養蚕型建築」と「石垣」の2点ではないでしょうか。
山間部の平地が少ない故の苦労が感じられる「石垣文化」。
養蚕業は群馬県全域で盛んでしたが、これほどまでに密集してかつ残されている地域というのは、ここ南牧村しかありません。
もっとも高齢化と過疎化が激しく、人口もすでに2000人を切っています。
ちなみにこの群馬県甘楽郡南牧村(なんもくむら)から南へ約30kmほどの長野県南佐久郡にも「南牧村」がありますが、こちらは「みなみまきむら」と読みます。
話は戻り、南牧村を横断する一本道の県道(下仁田方面から磐戸地区までは県道45号下仁田上野線、磐戸から先は県道93号下仁田臼田線となって田口峠を越えて佐久方面へと至る)を走って南牧村の最西端を目指します。
そしてスタート切る最初の集落が(南牧村地域)最奥に位置する広川原集落です。
【広川原】
長野県佐久市田口字広川原
正確に言うと実はこの広川原は長野県の集落です。
この先に標高1104mの田口峠があります。
通常であれば、山の尾根が境界線となる筈なのですが、なぜかここでは田口峠を越えて南牧川支流の馬坂川中流域まで長野県となっているのです。
理由はいろいろ諸説あるそうですが、峠を越えてでも田野口藩の城下町であった臼田町田口との交易の方が下仁田に出るよりも便利だったからとも言われています。
この県道93号線は昔は中山道の脇往還で「信州姫街道」と呼ばれていました。
現在でも、この県道93号線は冬期も閉鎖される事はありません。
広川原集落は馬坂川に面した傾斜地に寄り添うように約10軒ほどの民家がありますが、いくつかは廃屋となって朽ち果てており、現在この集落に住んでいる方は1世帯だそうです。
他の民家は週末など定期的に帰ってくる状態だとか。
この広川原には、幻の地底湖・広川原洞穴群があり、軽井沢をベースに調査隊や探検隊が訪れるようです。
さて、山を下って行きます。
途中にも馬坂川沿いに孤立した民家がいくつかありました。
【間坂・馬坂】
長野県佐久市田口字馬坂
群馬県甘楽郡南牧町羽沢字間坂
間坂集落に到着です。
この集落もちょっと変わっています。
読みは「まさか」ですが、字が「間坂」と「馬坂」と2つあります。
実は、この集落こそ群馬県と長野県の県境なのですね。
馬坂川が境界線で、長野県側が「馬坂」そして群馬県側が「間坂」となります。
県道は群馬県で馬坂川を挟んだ対岸の集落が長野県となっています。
中には主家が長野県で蔵が群馬県の家もあるそうです。
間坂は大きな集落ですが、住民の大半は長野県側の「馬坂」、群馬県側の「間坂」は現在は3世帯ほどしか住んでいないそうです。
段々畑の石垣は平地が無い山間部で少しでも平らな土地を得るために作られますが、この南牧村では斜面が急すぎる為に、田畑を水平の造る事すら出来ません。
山を削る量、石垣の高さ(石の量)も比例して大きくなるので、こういった斜めの畑になってしまいます。
これを下から上に向けて耕すそうなので、皆腰が曲がってしまうそうです。
間坂集落を後に馬坂川に沿って山を下り、馬坂川が本流南牧川に合流する開けた場所が勧能集落です。
が、勧能集落は後にして、先に同じく南牧川に流れ込む熊倉川を遡って熊倉集落を目指します。
【熊倉】
群馬県甘楽郡南牧町熊倉
熊倉は急峻な山の斜面の上方に立体的に集落が形成された、いわゆる「天界の村」に分類される集落です。
もちろん、熊倉川沿いのわずかな平地にも集落は形成されています。
この熊倉もまた信州・甲州方面と結ぶ街道沿いに形成された集落で、余地峠を越える中世の甲州街道でした。
この道は武田信玄の上州侵攻における軍道として戦国時代に開かれ、江戸時代になると信州佐久米がここを経由して砥沢に運ばれる重要な道となり、陸の孤島である上州羽沢にとっての生命線でした。
熊倉集落を縫うように登る旧道は現在車両は通行不能となっており、南側に新しく整備された林道が熊倉集落から分岐して大上峠を越えて長野県佐久町へと至ります。
かつては熊倉温泉も湧き、温泉旅館もあったそうですが昭和初期には廃業してしまったそうで、旅館があった場所の基礎の石垣が残されているそうです。(場所はわからず)
さて、旧羽沢村で最大の集落勧能地区に戻ってきました。
【勧能】
群馬県甘楽郡南牧村羽沢字勧能
南牧川周辺は幾分平地が多い為に集落の規模も大きく、街道に沿って街村を形成しています。
養蚕建築「せがい造り」民家がこれほどまでに多く集まる集落も他にはあまり見ることがありません。
中山道の脇往還には現在の国道254に沿った西牧(下仁田町本宿)ルートと南牧から田口峠を越えて信州へ繋がる南牧ルートがあり、双方に関所が置かれました。
この脇往還は「信州姫街道」と呼ばれていますが、姫街道とは江戸時代の女人取締の厳しい中山道「横川関」を避けて多くの女性の旅人がこの険しい峠越えを行った事からそう呼ばれました。
集落を見下ろす丘の上に立つ大きな屋敷が庄屋でしょうか。
「南牧村」の南牧とは、戦国時代に甲斐武田氏が上州侵攻の拠点としてこの地に南牧砦を築いた事に由来します。
この南牧砦には家臣の市川氏が配されましたが、武田氏が滅亡後は帰農して庄屋となりました。
市川市は江戸時代には徳川家から再三旗本になるよう進言されますが、これを固辞し続け代わりに天領での独占的な砥石の採掘と販売権を手にして財を築きます。
市川五郎兵衛はかつての領地であった佐久の浅科地域を小諸藩の許可を得て大規模に新田開発を行いました。
現在でも佐久コシヒカリの特別ブランド米として「五郎兵衛米」としてその名が残されています。
かつては、この勧能地区にも「勧能温泉」がありました。
最盛期には宿の部屋が足りなくなるほど賑わい、近隣の民家の一角を宿泊者に貸し出していたと言います。
南牧村では最も近年まで営業していた温泉で「玉生舘」と書かれた旅館の廃墟が残されています。
つづく...
次は「ぶらり、ジャガーE-PACEに乗って群馬県南牧村の集落を廻ってみた【第2話】」
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御ブログに紹介いただいた「集落を見下ろす丘の上に立つ大きな屋敷」は母の生家です。
昭和30年後半から40年代には学校の夏休み等に長期滞在して自然を満喫したのを懐かしく思い出しました。
当時、子供心に、なんでこんな山奥に住居があるのかと不思議に思ったものですが、御プログを読ませていただき腑に落ちました。
ありがとうございます。